今回の文章は何の結論もない落書きのようなものです。ご了承ください。
 東山紀之さん主演のドラマ大岡越前5「孝行息子の毒団子」の回は、尊属殺人や認知症について考える機会となりました。ここではドラマの内容にはあまり触れませんが、孝行息子がボケてしまった親に毒まんじゅうを食べさせたという疑いで裁きを受けることになったという話です。

 現在では、親を殺しても、他人を殺してもその違いだけで罰に差はありません。もちろん「献身的な介護の末、介護疲れによる殺人」と「ただムカついたから殺した」という動機の違いで情状面などで差はでます。しかし、親(尊属)を殺したから特別に重い罰を与えるという準備が刑法にはされていません。
 かつては、殺人という罪、尊属殺人という罪が刑法には用意されていました。しかし、日本国憲法には平等という定めがあります。安倍晋三さんも近所のおじさんも、父親も人としては平等な存在です。
 憲法改正で話題になっているとおり、憲法の定めを法律は越えることができません。「平等ですよ」と書かれているのに、法律で「男を殺したら死刑」「女を殺したら懲役3年」という刑法は憲法違反になってしまいます。
 ただし、憲法違反だからその法律が無効になるのかは裁判をしないことには決まりません。身近な例では、民法の女性の再婚禁止期間や、非嫡出子の相続分の違いは「憲法違反だ」と裁判をした人がいたので改正されています。
 尊属殺人についても裁判で争った結果、今では削除されて殺人罪の一本になっています。
 非嫡出子の相続分や尊属殺人についての法律設計はそのころの日本国民の考え方や文化を反映して作られていました。
 憲法も法律も時代とともに改正が必要となる部分があるとは思います。
 民法ではいよいよ成人年齢が引き下げられます。私は成人年齢の引き下げについては、たしかに肉体的な成長はかつてよりも早くなっています。しかし、多くの人が大学に入り社会に出る猶予を受けているような姿に見ていると、精神の成熟がされているのか疑問に感じます。
 憲法改正については国家権力を縛る最高法規という面があるので、慎重な議論がされることを期待します。私たちの国の根幹を決めることなので関心を持つ必要があります。

 法律の話が長くなってしまいましたが、ここからは認知症の話です。私たちは年を取れば体のあちこちに不具合が出てきます。同様に頭の中も不具合が発生します。
 私たちは身体的な不自由さよりも、精神的な異常性(認知症に見られる症状)に恐怖を感じやすくなっています。
 ここでいう恐怖とは、当事者が持つ恐怖ではなく、その周囲にいる人が持つ恐怖を意味しています。
 歩行が不自由になり外出時は介護が必要な身体的な障害と、目を離すとどこかに出かけてしまうというような精神的な障害では、後者の方が周囲にとって負担が大きくなります。電車の踏切に入って事故を起こして多額の損害賠償を請求されたというニュースがかつてありました。そのほか、実際は運転できない状態なのに「自分は正常に運転できると思い込み」横断歩道を渡る母子や子どもを殺してしまう事故など他者を巻き込む事件事故の心配がつきまといます。もちろん、本人自身が安全に過ごすということも脅かされます。
 大岡越前の時代は現在と違い寿命が短いので認知症が重度に出る前に死ぬことができましたが、今では身体的にも精神的にも辛い状態になっても死なせてくれない時代です。
 そのために、若い頃からの健康作りが大切だといわれています。若い頃に考える老後は主に経済的なことに目が向きがちですが、自分の歯にしても、生活習慣病にしても、若い頃の積み重ねが年を取ると現れるわけですから、経済的なことと同様に健康作りについても積極的に考えた方が良いように思います。