学校の社会の時間に習う日本国憲法は、平和主義、国民主権、基本的人権の尊重、納税・労働・教育の義務、三権分立などあります。
 日本国憲法は過去の反省から作られています。そのため、国家権力が暴走しないような設計になっています。また、国民に対し過干渉になり、侵害することがないように注意が払われています。
 思想的な自由、経済的な自由、人身の自由など国家が権力的に介入することを排除しています。
 例えば、思想・良心の自由は、内心で何を考えていても本人の自由です。どんな過激なことを考えていても内心で思っている間は自由です。しかし、「明日○○駅に来る○○総理大臣を殺すことがわが国のためになる」といった考えを外に発信してしまうと、警察などの迷惑なりますので制限されます。内心にいる間は本人のものですが、外に発信してしまうと、他人の自由を侵すおそれもありますので、何でも自由が認められているわけではありません。
 経済的な自由については、例えば国家から職業選択を強制されないという自由があります。「身体能力が高いから自衛隊に入りなさい」と国家から強制されませんし、「頭脳明晰だから財務省に入りなさい」と国家から強制されることはありません。
 人身の自由は不当に逮捕されない権利や奴隷的な拘束の禁止などがあります。少し前にカルロス・ゴーンさんが拘束について批判していましたが、自白している重罪人であっても、奴隷的拘束をしてよいということではありません。三角木馬や石抱で自白をさせることも認められません。

 そんな自由の中には学問の自由というものがあります。大学の自治とセットで登場することが多い言葉です。
 学問の自由には、「国家が望む研究をさせ、国家を批判するような研究はさせない」という過去の反省から作られています。
 その自由には研究する自由、発表する自由、教える自由があるとされています。研究をしても、発表する場がなければ意味がありません。時間を費やしても外に出すことができなければ、そもそも研究しようと思う人がいなくなります。研究することと発表することはセットで機能します。もちろん、研究を深めていくためには研究を教えて仲間を増やすことも必要です。
 それらを守るために、大学の自治というものが存在しています。わかりやすく表現すると
「学問の自由=宝石」として、「大学の自治=城壁」としたときに、宝石という守りたいもののために、城壁を作っているという関係になります。
 「大学内のことは大学内できちんとルールを決めて運営するので、国家権力は干渉しないでください」ということです。「大学内の運営は大学内で決める」(大学の自治)ことによって、「研究すること、発表すること、教えること」(学問の自由)を守るという形です。

 そんな国家権力からの自由を考えていたら、弁護士自治について触れたくなりました。
 弁護士は、刑事事件では公益の代表である検察と対峙します。ある面では検察にとって苦々しい存在になることもあります。最近のニュースで幹部検察官の人事を内閣が介入したと話題になりました。検察も行政の一機能なので、行政である内閣が人事に関わることもありえます。しかし、検察は公益の代表であり、内閣(構成員)の違法行為をチェックする役割もあることから独立性がある程度なければ、時の内閣に操作されるおそれがあります。
 少し話が逸れましたが、検察(法務省)は国家権力の一機能です。苦々しい弁護士について、資格を奪う言いがかりを付けて排除することもできてしまいます。
 言い換えますと、法務省が弁護士の資格を管理して、法務省が検察庁を管理している状態は、検察庁(法務省)にとって排除したい弁護士に理由をつけて資格を奪うことができるということです。
 そこで、弁護士資格の認定などに関することは弁護士会の組織の中で行われるようにして、国家権力が及びにくくしています。
 国家権力が及びにくいということは弁護士会という組織は真摯に運営されることを期待されているといえます。ポンコツ組織になってしまうと、法務省できちんと監視しないといけないという流れを起こしてしまうので、自律が求められています。

 「自由とは好き勝手にしたい放題できる」というわけではありません。上では主に国家権力からの自由について触れましたが、自由のためには自立性が求められる場面が少なくありません。私人間においても、私の自由とあなたの自由が衝突する場面は起こり得ます。表現の自由とプライバシー権だとか、自由に営業する権利と環境権だとか、例をあげればいくつも出てきます。
 社会という他人と共有している空間においては他者のことを考え自律する姿勢が大切であるといえます。